2020-3-8 10:02 /
以下为胡言乱语
关于在文中出现的一句“やさしい心の持主は 我にもあらず受難者となる”的考察
这句话据我谷歌发现,是出自吉野弘的一首诗「夕焼け」,具体如下

いつものことだが
電車は満員だった
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
例もいわずにとしよりは次の液で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で例を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀相に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて--。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。



由于本人日语能力有限,就不自作主张翻译了,大概的意思就是在乘满了人的电车中,一个女人给老人让座的事,第一次,女人给老人让座了,然后老人到站没有道谢就离开了,之后女人又坐下了,第二次又来一个老人,然后又给老人让座,这次老人道完谢然后又离开了,之后又来一个老人,这次女人低下了头,没有让座,但是却一直紧咬着嘴唇,身体也很僵硬。之后“我”就下车了,女人还是低着头凝固在那,然后就引出了中心句“やさしい心の持主は いつでもどこでも われにもあらず受難者となる”,之后就是对这句话的解释,是因为「やさしい心の持主」能够把别人感受到的痛苦当做自己的痛苦来感受。之后最后一句「美しい夕焼けも見ないで」作为本诗的完结。

这样一看,这首诗其实和剧情有很大的关系了,至于哪些人是「やさしい心の持主」,这个也很难说清。先说姬织线,姬织线中一看就是姬织和姬织的母亲是「やさしい心の持主」,本来想让别人来承担魔法的代价,但是最后都是自己来承担的,也就是「受難者となる」。然后千和线中ナハト是「やさしい心の持主」同时也「受難者となる」……总而言之,就是自我牺牲。从本诗看,「やさしい心の持主」其实并不止自我牺牲这一点,还有其他很多理解方式,比如,如果是真的「やさしい心の持主」的话,那么第三个人就应该也会让座,否则就不是真正的「やさしい」,但是从另一方面也有人说,老人刚好是站在女人面前的吧,如果不让座就会受到别人的指责,这就上升到社会问题了,此处不谈,大家都懂。还有人说这是“自我牺牲”和“勇气”,如果把让座作为一件必要的事情的话就必须牺牲某一个人来让座,女人选择了“自我牺牲”,这是非常需要勇气的,但是第三次没有让座,勇气就有点说不过去了。
在本诗中有人认为「やさしい」是指人是否让座等乱糟糟的事情心生迷惑,把这种动摇称为“温柔”或是觉得“悲哀”。
但是最后的一句「娘はどこまでゆけるだろう。下唇を噛んで つらい気持で 美しい夕焼けも見ないで」,「美しい夕焼けも見ないで」我认为这是对女人(やさしい心の持主)的一种鼓励,放弃温柔的自己的人生,于此有一个相反的人生不也挺好的吗,这大概和最后的te线相重合了,男主放弃了成为夜之王,选择了和kuro在一起,虽然「下唇を噛んで つらい気持で」,但是他们看到了美丽的夕阳。也有人说这是夕阳在斥责女人,反正我也不太懂,有点模模糊糊的感觉。

以上都是我的胡言乱语,还是请真正的考据学家来具体解释,我只是作为一个引子(

参考来源:
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/ddebd07c3ab1fb90dff9e6de8473ec01
https://tankanokoto.com/2019/02/yosino-yuuyake.html
Tags: 游戏