横山隆一 横山隆一

  • 简体中文名: 横山隆一
  • 别名: よこやまりゅういち
  • Yokoyama Ryouichi
  • 性别:
  • 生日: 1909年5月17日
  • 祭日: 2001年11月8日

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职业: 漫画家 制作人员

高知県高知市出身の漫画家、アニメーション作家。

政治風刺漫画が主流だった1930年代日本の漫画界において、簡略な絵柄と明快なギャグによる欧米流の「ナンセンス漫画」を志向した若手グループ「新漫画派集団」を結成し、やがて戦中・戦後初期の漫画界をリードした。戦後にはアニメーション制作会社「おとぎプロダクション」を設立したほか、広告や絵本のイラストレーションや、油彩画を描いた。

高知市堺町の生糸商の長男。高知県立高知城東中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)卒業。1927年に彫刻家を目指し上京、東京美術学校を受験するが2度にわたり失敗。1928年に川端画学校に入学したほか、同郷の彫刻家・本山白雲に入門[1]。その間横山は、『アサヒグラフ』『新青年』『月刊マンガ・マン』などに漫画を投稿し続けており、本山に漫画家への転身をすすめられて堤寒三を紹介され、堤の門下に転じる。また、北澤楽天が横山の漫画に惚れ込み、時事新報社の自身の部屋に横山を招き、面会をしている。この経験は横山に自信を与えたという。

このころ『月刊マンガ・マン』の寄稿者だった近藤日出造や杉浦幸雄らと知り合った。昭和初期の漫画界は文壇・画壇をもじって「漫画壇」とも呼ばれ、新聞や雑誌は少数のベテランが独占しているような状態で、横山ら若手はプロとしての発表の場がなかなか得られなかった。横山・近藤・杉浦の3人を中心に「漫画市場に若手が結束して売り込もう」「殴り込みをかける」といった意見が高まり、1932年に「新漫画派集団」の結成にいたった。

「線を大胆に簡略化した絵と奇抜な発想」で抜きん出ていた横山は、「新漫画派集団」の中で最初に名が売れていった。杉浦は横山の作風を「昭和のピカソ」と評し、「奇想天外の発想はだれもついていけなかったのに、みんながマネをしようとして失敗した」と語っている。

太平洋戦争中は、自身の作品『フクちゃん』が日本海軍のプロパガンダとしてアニメーション映画化された。その一方、『フクちゃん』は、敵国である米軍の宣伝ビラ『落下傘ニュース』にも(当然)無断で使用された。

戦後の1945年10月、横山らは「新漫画派集団」を「漫画集団」に改組し、新進の漫画家を多く世に出すことに貢献した。

横山は1961年に、日本初のテレビアニメシリーズ『インスタントヒストリー』を制作した。この作品は1分程度の放送であったために、後発の手塚治虫による30分のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の陰に隠れた存在となってしまっている。

2001年11月8日、脳梗塞のため神奈川県鎌倉市内の病院で死去。翌年に「横山隆一記念まんが館」が開館することが決定していたが、開館を待たずに亡くなった。横山の娘は新聞取材に対し「現代ではおどろおどろしい絵や話のものが漫画と呼ばれてしまっている。本当の意味での『漫画』は終わった」と語っている。

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