#1 - 2022-10-28 01:09
傀誌Cɹaitɕ (嶋村さん愛好者俱楽部の中國語圈首席。夜闌挑燈觀片,羽)
人形自走開楼姫。
#2 - 2022-10-28 01:10
(嶋村さん愛好者俱楽部の中國語圈首席。夜闌挑燈觀片,羽)

@totolo に感謝する。
第一回スピリッツ新人王開催記念 魚豊氏インタビュー
 ずっとぼんやりとですがニーチェが好きだったんです。本をめちゃくちゃ読み込んだとかはないのですが(笑)

でも印象深いと思うエピソードが色々あるというか、『ツァラトゥストラはかく語りき』の4部って当時刷ったのは40冊くらいだったらしいんです。しかもそれすらハケなかった。「そんな誰も読んでいなかった本が、200年後に極東の島国の学生に届くのか・・・!!」と痺れました。「残す」って本当に凄い事だなと。

 そうやって古い本を眺めてたりすると「2000年も前の言葉や、紀元前400年の言葉が、今の僕の背中を押すって、どういうことだ?」とその威力に驚かされます。 人はいずれ死んでしまいますが、誰かがその想いを言葉という形に固定化して後に託すと、彼らから僕まで繋がる。それで「託す」というのはとても凄い事じゃないかと思うようになりました。

 それに歴史上においても何か大きいものが動く時というのは、一人の天才が全てを動かすって事はありえなくて、必ずその天才の後を受け継いでいった人達がいるんです。科学の営みなんかも、そうやって次の世代、また次の世代で改善されていって―― その「一人じゃないこと」こそが、人間という種の持つパワーだと思うんです。
「一人の天才」というテーマで物語が描かれることは多いですけど、『チ。』では「どんな天才だって踏み台になるし、どんな天才でも間違っているし。そういった天才たちの屍を乗り越えて進んでいく人間のダイナミズム」みたいなものを描きたかった。

 ガリレオ・ガリレイも「書き留めよ。議論されたことは風に流されてはいけない」と言っていて、その言葉も「アツいな」とずっと心に残っていました。書き留めないと流れていってしまうけど、書き留めたなら、たとえ最初は40部しか刷られなくても、200年後に生きる生活様式もリアリティーも全然違う高校生に届くかもしれない。真理や核心に迫る極限の言葉は何千年後にだって届く可能性があるし、昔の人と会話することはできなくても、その言葉に今を生きる人間が背中を押される事で、時を超えてコミュニケーションが行われる気になる。そういうのも好きな感覚です。

Q. 自分の作品を「誰」が読むのか。読者の顔は浮かべて描きますか?



 やっぱり高校生の頃の自分ですかね。「こんなの読者に媚びてるだけ」みたいな読み方をしてくる嫌な読者ですが。

 それと、小さいころからお笑いが好きだったので、そこのお客さんとの距離というか、大衆芸術の姿勢は憧れがあります。 お笑いの要素は漫画にかなり活きると思っていて、フリオチとか3段落ちとか天丼とか、実用的ですぐ使える面白の構造もありますが、それ以外にも奥が深いというか、例えば「ツッコミの文化」って「お前、それ違うよ!」って言われることですよね。お笑いはツッコむことで、常に価値や判断が相対化されると思います。 なので当然の話かもですが、誰もがボケと分かっていることをツッコむのでは想定内だから面白みは少ないと思います。

 恐らくその出力が最大公約数的なるのは、観客が「ボケ」の行動の違和みたいなものを感じ取ってるのだけど明確に理解出来ないものを、ツッコミが一歩先を行ってツッコむ時。 そうなると、ツッコミは「ただの同調圧力」ではなく、「無意識化に形成されつつある一般意志を掴みながら、同時に、その少し先の新しい特殊意志的な価値観の提示」と言った技になってくる。

 とはいえ単純にはいかないのが、ツッコミ自体も万能ではなく、間違ったタイミングや、間違ったところに入れば、それはボケに転換し得るという所。



 そうやって「それがボケなのかツッコミなのか」さえも観ているお客さんが判断するので、演者が「自分たちはこう思われたい」と決めた方向には絶対化してゆけない構造になっている。その「演者は常に観客の価値を相対化し、観客の固定観念を揺るがす。しかし同時に、観客が絶えず演者を判断する事で、演者側の過度な権威化も防ぐ”妙”がある事」というのは、お笑いという大衆文化の持つ凄みだと思います。 もちろんそれは寄席での話というか、例外は無限にあって、またその例外ならではの"先鋭化"の絶大な価値も途轍もなくあると思いますが。

 説明が長くなってしまいましたが、そういう見立ては個人的に漫画を描く上で応用できるし、読者さんを意識するときにもいいと思います。

 『チ。』が完結した今は、ツッコミを入れてくる高校生の頃の自分にも「まぁまぁ悪くはないんじゃないの」ぐらいは言われたいです。そこの所ばっかりは確かめる術はありませんが。

 ただ「お笑いのこと言語化してる時点で何もわかってないのに、それを新人賞のインタビューで長々と話すなんてシラケる。」とは確実に言われてるとおもいます。

Q. 今回 審査をされる上で、評価の基準はなんでしたか?



 一番重視したのは、オリジナリティーです。それは審査基準というより、普通に読者として漫画を読む時、考えるまもでもない前提ではありますが。

 たとえ全ては何かの引用でしかないとしても、露骨に既に世にあるものの「上手な繰り返し」でしかない表現は、自分はあまり好んで見ないと思います。 では、オリジナリティーとは何かと問われれば、その一つは「描いている人の本音」じゃないでしょうか。

 矛盾する様ですが、当然本音だって本当のオリジナルなわけじゃない。文化や他人、環境の影響を強く受けて作られるものだし、多分人間の感情なんて4.5種類くらいしかない。 でもどんなに陳腐で繰り返された感情でも、本音であることが読者に伝われば、きっと新鮮に感じさせられるはず。「好き」って感情でも100人の人が言えば、100通りの言い方、声色があるわけですから。

 だから、描き手には自分の本音を書き出す作業が大切だと思います。日常生活では嘘をつかなきゃならなくても、漫画の中ではいくらでも本音を言っていい。それが創作のいいところで、せっかく漫画家をやっているんだったら、自分自身の本音を作品に出すと楽しいと思います。

 繰り返しますが、それはどんなに陳腐でもいい。 きっと同じメッセージでも、違う人が繰り返し伝えることにこの世に物語が存在する意義があるのだと思います。

 今回読ませていただいたどの作品もそこは達成してる気がしました。その上で更に「さぁ、ここから」という期待感もあった。 なので今後とも胸熱です。

Q. ストーリーやキャラクターを面白くする秘訣があれば教えてください。



 僕にとって面白い物語にはいつも似たような共通点があります。それは「コンフリクト(葛藤)」と「オブセッション(強迫観念)」が描かれている事。この2つは緊張感を出すのに一役買う上に、感情移入させやすいと思います。「作中人物が何に強迫観念があって、何に葛藤しているのか」―― ここを明確に設定するだけで、一気に興味深いキャラクターができると思います。

 漫画を描こうとしている際に、「キャラが大事だから、まずキャラの履歴書を作れ」って言われる事がよくあると思うんです。でも好きな食べ物や、生年月日や、身長なんかをいくら書き出していっても、それはただの記号でしかない。勿論そういった記号こそがマンガの本質でありラディカルさなんだ、と言う意見もあると思いますが、僕はそっち方面の才覚がまるでないので、ここでは僕がやってるキャラクター作りの方法を話すと「キャラが何を恐れているか、何に葛藤しているか」を考えると話を作りやすい。

 たとえば頭がいいキャラを設定した時、偏差値70とか言われても読者である僕にはまったく関係ない。でもそのキャラが「頭のいい行動」をすれば読者と関係が生まれる。そういう感情移入へ最も持っていきやすいのがコンフリクトとオブセッションだと思います。読んでて当事者性が生まれるし、同意はできなくても理解ができれば、読者とキャラに関係が生まれる。

 さらに、そういう読者との距離を測れる様になれば、あえて突き放すという異化効果も使える様になる。そういうのを使いこなせればいつか作劇王になれると思います。僕もそうなりたいです。

 とはいえ、さっき言った様に記号そのものが面白いというタイプの作家さんや読者さんもいると思います。(それはそれでマジで奥の深い世界だと思います)
なので「何が描きたいか」が「どんなキャラクターを生み出すか」に先立って重要です。

 また作劇においては「逸脱と反復」という要素を意識する事も重要だと思います。人には「逸脱」が好きな人と「反復」が好きな人がいると思いますが、僕はこの境界線上にある作品が一番新しくて面白いと思う。

 逸脱しすぎると、文脈を知らないとチンプンカンプンで理解できない。逆に、反復は過去と同じ事の繰り返しなので、そちらに寄りすぎると「前にもあったな」と新鮮味のないものになる。

 なので「逸脱と反復がせめぎ合うギリギリのライン」に面白さがあると思います。そしてその逸脱と反復は、作家性と大衆性という言葉にも置き換えられると思います。そこを程よくバランスしていくことが重要だと思います。

 我ながら抽象的すぎて、何か言ってる様で何も言ってない感じになってきました。「バランスってそれどうやんだよ!」とか聞かれたら、僕も全然わからないので今後とも描きながら勉強していこうと思います。
#3 - 2022-11-7 16:25
(嶋村さん愛好者俱楽部の中國語圈首席。夜闌挑燈觀片,羽)
【インタビュー】『チ。ー地球の運動についてー』魚豊「大地のチ、血液のチ、知識のチ。その3つが渾然一体となっているのがこの作品。」
──ラストシーンをどうするのか、決めた上で連載開始されたのでしょうか?

魚豊:はい。『ひゃくえむ。』と同じく、細かく決めてから連載を始めています。どこに向かうのか分からないまま漫画を描くのが不安で、そんな度胸もありません。ラストまでおおまかに決めることで、自分の100%が出せると思い、作ってます。
アニメ化決定の漫画「チ。-地球の運動について-」作者の魚豊さんに聞く 探究心の原動、子ども時代は
片仮名語彙難しいね。